「輝く今日を見つめて」2017.9.8

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 今から66年前の今日、第二次世界大戦終戦の6年後の1951年(昭和26年)の9月
8日、アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本とアメリカをはじ
めとする連合国諸国との間で「サンフランシスコ平和条約」が調印されました。
国際法上では、この条約の発効により多くの連合国との間(ソ連などは調印せ
ず)の「戦争状態」が終結しました。これを期に連合国による占領が終わり、日
本は主権を回復し、もうひとつの終戦を迎えています。そしてこの平和条約に全
権委任で調印したのが、当時の内閣総理大臣の吉田茂(第三次吉田内閣)でした。 
 
 彼は高知県宿毛市出身の自由民権運動・板垣退助の腹心だった竹内綱の五男と
して生まれていますが、出産前に父親が反政府運動で逮捕されたことなどもあ
り、出生後は父の親友であった貿易商・吉田健三氏の養子となって厳しく育てら
れます。その後東京帝国大学を卒業し外交官になり、そして政治の世界へと進ん
でいきます。実父・義父とも激動の明治維新を生き抜いた志士だったため、強い
意志はしっかりと受け継がれたのではないでしょうか。
 政治の世界では、1946年に内閣総理大臣に就任すると、その優れた政治的感覚
と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を復興させ、戦後日本の礎を
作ったといわれています。ちなみに戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登
板したのは吉田茂首相と安倍晋三首相の二人のみだそうです。
 
 サンフランシスコ平和条約の時には、条約調印後、次に控える日米安全保障条
約の署名には同行していた池田勇人蔵相らを頑として同席させず、彼らを振り
切ってたった一人で署名したのですが、それは調印の責任を一身に背負うこと
で、同行していた他の委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだったとい
われています。
 
 また1953年(昭和28年)(第四次吉田内閣)には国会で質問者に対して「バカ
ヤロー」と発言した事が問題となり、反吉田グループの内閣不信任案に対抗する
ため、衆議院を解散させました。いわゆる「バカヤロー解散」です。
 
 さまざまなエピソードや逸話の多い彼ですが、サンフランシスコ平和条約で戦
争を終結させた功績などで、1965年・1966年・1967年にノーベル平和賞の候補に
三回推薦されています。
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