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電力王になった方法
日本ではあまり知られていない事なのですが、日本初の電力会社を作ったのは
福澤諭吉の娘婿、福澤(旧姓は岩崎)桃介が投機で儲けた資金だと言われています。
彼は埼玉県のとある農家の次男として生まれ、幼少期から神童として有名だった
一方、裸足で学校に通わなければならないほど貧しい生活を送っていました。
当時の桃介のあだ名は「一億」で、「大きくなったら一億円の金持ちになるのだ。」
というセリフが彼の口癖だったそうです。
後に親類知人の援助もあって慶應義塾に進学、在学中は学力優秀・大胆不敵・
眉目秀麗と文句の付けようがない学生で、慶応義塾で行われた運動会において
「背中にライオンの顔が描かれた白シャツ」を着て走り回っていた事をきっかけに
福澤諭吉の妻の目に止まり、次女である房(ふさ)の夫として婿養子を打診されます。
当初は断ったものの、夢であった海外留学の支援を条件に娘婿となる事を決意
します。卒業後に渡米し、ペンシルバニア鉄道でインターンシップを経験。帰国後は
北海道炭礦汽船や王子製紙などに勤務していたのですが、肺結核を患って
療養生活を強いられてしまいます。
普通の人であれば入院生活中はしっかり休養をとる期間ですが、桃介は蓄えて
いた財産を元手に株式投資にのめり込みました。当時は日清戦争での日本の勝利
による株価高騰もあり、これを機と捉えた桃介はリスクの高いレバレッジを利かした
取引を上手く使うことによって、元手1000円の証拠金から10万円(現在の20億円
以上の価値)をたった1年で稼ぐ事に成功します。
「婿養子の身分で面倒は見てくれとは言えない。先の見えない療養生活の費用を
自分で稼ぐためにしているのだ。」と周りには説明していたようですが、その後の
日露戦争後でも信用取引や先物取引で250万円もの大金を稼いでいる事や、
東京興信所の信用調査では「桃介は相場師」と判定されていた事などから
判断すると、実際は相当な相場好きだった事が伺えます。
桃介はここで得た大金を元手に実業家へと転身し、現在の関西電力や中部電力
の元となる大同電力と東邦電力の設立など、短期間で多数の会社の出願・設立・
合併・統廃合に関わり、いつしか「日本の電力王」と呼ばれるほど偉大な存在と
なりました。
「順波には乗り、逆波は逃げよ。成功は機を見るに敏なる」。これは桃介が残した
相場の格言ですが、昔から言われるトレンドフォローの格言と何ら変わりありません。
ただ、桃介が成功できた本当の理由は、「チャンスと見るや大きくリスクを取る
選択をした」事ではないでしょうか。
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